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FMICS 2005(平成17)年09月17日例会 / 報告内容の概要

近代日本の私学経営における「学是」の形成 ― 拓殖大学の事例から

池田 憲彦 (拓殖大学創立百年史編纂室主幹)

内容目次

はじめに 学是とは何かの前に国是とは何か
一 一九四五年の敗戦と国是の不明化
二 学是とは何か
三 知識人の気高い職分の一つであった大学経営
四 近代日本の大学における国際性
五 拓殖大学の近代における国際性
むすび 法から見た敗戦による高等教育の変質と継続したもの


はじめに 学是とは何かの前に国是とは何か

 冒頭から聞きなれない表現が「学是」という表現であろう。そこにすぐに入る前に、この表現をもたらす包括的な概念としての「国是」を明らかにする必要がある。半世紀余前の西暦一九四五年、最近までの日本の慣例表記では昭和二十(西暦一九四五)年の八月に、日本帝国は連合国に降伏することを伝えて、九月二日に東京湾で降伏の調印をしてから占領下に入った。

 七年後の昭和二十七(一九五二)年四月二十八日からの主権回復後、日本国は国是概念があいまいのままに半世紀を経て、今日に来ている。従って、この言葉を持ち出されても、戦後教育を受けた人々にとっては、多くは意味が不明であろう。国家主権のない占領中に付与された現行憲法の一部である第9条を取り出して、国是と称する向きもある。だが、その出自からして論外である。

 国是の説明をする前に、歴史それも近代史から明らかにしていく方が、まだ身近に感じ得るかもしれない。近代日本が国是を明快に初めて定めたのは、明治維新においてであった。明治元年(一八六八)四月五日、旧暦では三月十三日、明治天皇は京都の紫宸殿において、公卿や諸侯を前にして国是として「五箇条の御誓文」を誓約した。維新後の近代日本国家の方針を定めた。

 『五箇条の御誓文』(以下、「御誓文」とする) と言われても、 現代それも平成の御代では、 知る者は少ない。 知っていても、 その内容には及ばない。国是とは今様に言えば、国のミッションを示したものであった。あるいは国家経営の原則を示したとも言える。当然に国家としての日本による時代と世界に対する認識も示されている。

 カタカナ混じりの原文をひらがなに直すと、その内容は、

一、広く会議を興し万機公論に決すべし
一、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
一、官武一途庶民に至るまで各志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし
一、智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし


一 一九四五年の敗戦と国是の不明化

 占領下に置かれた日本は、旧憲法では元首であった天皇の意向として翌年昭和二十一年元旦に、「新日本建設の詔書」を出した。俗に「天皇の人間宣言」とも言われている。作家三島由紀夫が奇書『英霊の声』で、「などですめらぎは人間となりたまいし」とのフレーズを書いた原書である。

 占領中には占領軍総司令官マッカーサーの指令により邦訳が禁止されていた『アメリカの鏡・日本』(訳題)の著者ヘレン・ミアーズによれば、この詔書はGHQの「指導」に従って出されたものである(Helen Mears "Mirror for Americans: JAPAN" 1948. 伊藤延司訳。角川学芸出版。一六一頁。2005年 )。彼女が、そこでは「私たち」という表現を用いているのは、当時の彼女が占領軍当局であるGHQの一員であったからだ。

 非公式に提示された詔書の案文に、昭和天皇は前掲の「御誓文」を冒頭に入れるように指示した。その真意は、 GHQの意図とは次元を異にしていた。 詔書の冒頭節は、「顧みれば明治天皇明治の初国是として五箇条のご誓文を下し給えり」となっている。この詔書は「御誓文」が本意で、以後の下りは、その内容に沿って読むべきであるものの、主権回復後も冒頭を無視して、GHQの望んだ説明だけを強調する向きが多い。

 敗者の受諾したポツダム宣言にある勝者側が求めたいわゆる民主化は、近代日本で、その最初に国是として原型があった、と昭和天皇は示唆したかったものと思われる。「御誓文」の一項は、日本流儀のデモクラシーとまでは言わないが、民意の重視と無縁ではない。昭和天皇はそこに立脚していた。

 GHQやその意を受けた周辺も、 この昭和天皇の意思に異を唱えて削除に至ろうとすれば可能な権力を保持していたにもかかわらず、 敢えて行使しなかった(ポツダム宣言にあった"subject to")。 そうであろう。 いくら立憲君主制とはいえ、 しかも詔書は首相以下の副署があるとはいえ、 表現は悪いが陛下は操り人形に終始したわけではない。

 だが、 GHQから見るとこの瑕疵は、 千慮の一失であった。 なぜなら、 縷々記された後段は、 GHQの意図の一切を水泡に帰す結果になっているからだ。

 しかし、GHQは「新日本建設の詔書」を、占領中にもかかわらず新たな「国是」にしようとした。その意図は、同日に発表された総司令官マッカーサーの日本人向け年頭教書に露にされている。その内容は、厚かましくも自分を圧制からの解放者としてのものであった。

 ここで「厚かましくも」と記したのは、ひとつの先行事実があるからだ。前述のように一九四五年九月二日に降伏調印があった。それを受けて、米国の国務長官バーンズは、ワシントンでステーツメントを出した。日本の物的な武装解除がこれで済んだ、これからは「精神的な武装解除」だと。

 国際法から言えば、日本とはまだ戦争継続の状態である以上、バーンズの言い分は当然である。だから、マッカーサーの年頭教書は笑止なのである。偽情報の最たるものであろう。すると、前掲のミアーズの著作の邦訳が禁止されていたのもわかる。

 半世紀を経た今日も、 昭和天皇が「御誓文」を挿入した真意の解釈について、 認識の共有はない。 聞こえて来るのは、 天皇の人間宣言と言われるGHQの「指導」見解(ガイド・ライン)だけである。しかも多数意見として日本の知的社会に流通しているのはなぜか。

 その現状は何を物語っているかを明らかにするのが現代史家の最大の勤めであろう。その勤めを放棄しているから、知日家と言われているダワーの"EMBRACING DEFEAT. Japan in the wake of World War U" (訳題『敗北を抱きしめて』岩波書店) のピューリッツア賞受賞を、現代日本知識人の一部は賞賛することになる。前掲のミアーズの著作と比べて読んだら、健康な常識を備えていれば赤面するはずである。

 いまだに日本の近代史の軌跡で、近隣諸国から底意のある非難を受けると、日本人選良の少なくない人々が右往左往するのはなぜか。こうした醜態はどこから生まれるのか。昭和天皇の前掲の詔書で冒頭に引用した近代日本の初国是が、いかに国家経営を担った心ある選良の共有するところであったか。一九四六年元旦のマッカーサー年頭教書の史観が権威化されるようでは、そうした近代史の軌跡は不明である。そこから、右往左往することになる。


二 学是とはなにか

 国是がぼんやりでも明らかになれば、学是とはなにかも明らかになってくる。それは、それぞれの私学が有したミッションに近似している。その私学が、存在理由をどのように明示しているかは、学是をどのように構築していったかを跡付ければわかるわけである。建学精神は、その最初の構成内容であろう。

 国是とは、国内だけでなく同時に国際社会に対しても、政府だけでなく国民も含んだ国が、自分たちの目標とその実現への取り組みに関する公約であり宣言であった。とすると、学是とは、学校(私学)が、日本と地球・国際社会に知的な営為としてどのように取り組むかを、内外に伝える誓約であった。ここで言う学校とは理事者側だけを指すのではない。経営という働きには、教学と学生を含む全体の営為も関わっている。

 官学と異なり、私学には建学理由があったはずである。建学者は、その情熱があって信ずるところに従い、学校の創設に邁進したのではなかったか。私学には建学の趣旨とそれに基づくその後についての多くの伝説があるものの、学是という明確な言葉とその領域から事例が追求されたことはなかった。

 日本の近代史において大学が果たした功罪は大きい。その後遺症は現在においても益々拡大しているという視点もまんざら言いがかりではない。損益の総括は、多くの大学百年史の編纂で、自覚的にも無自覚的にも行われている。官学の場合はともかく、私学では初学是を意味する建学趣旨に沿って、以後、どのように構築されていったのかを明らかにするのは、同時代に対して存在証明をすることでもある。

 それは、学是の文脈を示すことを意味している。この文脈は、学統と称してもいいと思う。通称では伝統というが、少なくとも一世紀を経ないと、伝統とは言えないと思われる。ともあれ、学是というコンセプトを大学史に導入すると、そこには、私学と官学の決定的な違いを発見できるはずである。

 近代日本における大学行政に限界があったとしたら、行政側が私学を官学の補完的な存在と見ていたところから来ていたのではないか。もし、この印象が妥当としたら、学是や学是の内容を考える知的な余裕が関連行政官にあまり無かったことになる。そして、こうした見方はそれほど見当はずれでないように思われる。こうした思索上の余裕の無さが、近現代日本における高等教育機関の在り方を考え政策を構想する際の、致命傷になっていないか。

 それは、一歩下がって理解ある言い方をすれば、文明開化という政策としての近代化の課題の重さからくる限界であったのかもしれない。すると、私学にしか有り得なかった学是を問題にして明らかにすることは、優れて現在から今後の私学が存在する場としての国内だけでなく国境を越えた社会と時代に対して、実際的な糧を提供することになる。

 こうした糧の有無が、これからの時代を切り開く有力な武器になるのではないか。たとえ、そのままでは役立たないにせよ、学是と学脈は試行錯誤の営為でもあったからである。なぜ試行錯誤に意味があるのか。近代日本における私学の学是を国是との相関で見ていくからだ。

 それにひきかえ官学は、本来は国是の担い手そのものであったはずだが。つまり、私学における国是と学是の相関の過程に生じている試行錯誤は、創意工夫の別名でもある。相関は相克でもあった。葛藤の現象は、個々の私学の百年史における通史の記述に現れている。

 学是を構築する知的作業は、貴重な文化的資産である。学是はそのまま国是に表裏の関係で必ずしも一体ではないからであった。その資産の所在すら、すでに見失って半世紀余を経ている。現在の文科省の前身である文部省には、こうした営為を資産とみなす見地は、初手からなかったようである。


三 知識人の気高い職分の一つであった大学経営

 元来、近代日本で当てられた表現である「大学」の発祥地である西欧世界でのユニバーシティは、神学の蓄積された教会と共棲しつつも肌合いを微妙に異にした、その社会の知的な成果が集積され拡散される場所であった。そこで模索された知の体系は世俗の国境を越える働きを有するのは自然だった。ユニバーシティの原義を考えればいい。

 大学の経営に関与することは、知識人としての気高い職分であった。専従者は当然であるが、非専従の人々で関与するのは、最も名誉な仕事であった。名誉とは名目を意味しているのではない。大学経営とは、大学の存在する国家社会の知的水準の程度を示していたからである。

 おそらく日本の私学も構造的な問題から、近々に多くの好ましくない現象を続々と表出することになるであろう。それは、大学経営をここで述べたような見地からではなく、専らバランスシートの見地から取り組んだ結果である。

 そうした現象が誰の目にも明らかになったときに、この半世紀だけでない「帝国大学令」以来の一二〇年の日本の大学行政に内在していた貧しさも表面化する。そして、新たな構想力から露骨に総括されることになる。こうした総括は、近現代日本で公認されていた知の限界をも示すだろう。

 つまりは、この小見出しで記した「知識人の気高い職分」としての取り組みが足りなかったことを証明するわけである。それを放置してきたのは、文部官僚の視野の範囲と認識の水準を示してもいる。あるいは、その遠因をたずねると、近代で明治の御世を経た以後の官政民が徐々に国是を矮小化した史実を暗示してもいるのか。

 近代日本では、圧倒的な官の強さに対峙して、在り方として私学経営に従事する職分は、その精神においてノーブルになるのは、いわば自然であった。旧制の大学は、数も少なかったし、進学する者も現在と比較にならないほど少なかった。社会的な評価も現在と比較しようがない。

 しかし、半世紀余前の敗戦によって、占領中に、こうした近代日本知識人の大学経営に取り組んだ営為は、その全てが戦勝国によって侵略日本による負の行為として否定されてしまった。その否定に敗戦日本人は官民を問わず同調した。それが教職適格審査制度である。教職追放とも言われた。さながら明治以後の文明開化において、それ以前の徳川時代までの過去を否定したように。そこに哀しい相似性を見ることができないか。

 本物の選良は、前掲のバーンズの発言にある占領側の意志を知りつつ、一般の日本人は半信半疑ながら、だったのであろう。ただし、日々の習いはやがて何が真で何が偽かを不明にしてしまったようである。


四 近代日本の大学における国際性

 冒頭で触れた初「国是」の「御誓文」五項に明らかのように、西欧衝撃という外圧に対応する文明開化の有力な担い手が、国家的見地から高等教育に求められた。初等・中等教育も同じく課せられてはいたが、世俗的な意味での選良養成の課せられていた大学は、その比重がとくに掛かっていた。彼我の強弱の差は明白であったからだ。

 近代日本の大学における国際性とは、西欧衝撃に対応するための諸学の移植になる。諸学の原産地は近代の西欧文明である。大学はその大半が西欧文明の移植を主目的にした。徳川政権末期の一八五六年に、当初は洋学所と名づけられて準備され発足した「蛮書調所」を前身としたのが帝国大学である。

 大学の別名は、欧化の源泉である「蛮書」の導入口となった。半世紀余前の敗戦以後は、占領軍の主力で最大の世界国家になった米国からの民主「蛮書」の移植機関が大学になった。この方針に添わない不適格者と判断されると追放された。この一世紀余、海外即欧米という基調は大勢として変わっていない。

 弱者が強者の武器を習得し真似るのは不自然ではない。独創性をあれこれ議論する前に、たとえ猿真似といわれ小ばかにされ批判されようと、真似た方が勝ちである。真似てもやられてしまう場合もあるが、真似ないとやられてしまうことは確実だからである。こうした生き方において、近代日本はシナ大陸の文明を受容した古代の際と同様に、てらいはなかった。その性は素朴にあるいは露骨に現実的なのである。

 そこを、開化あるいは欧化知識人と評することもできる部分を有する夏目漱石は、欧化現象を「上滑りに滑っていく」しかないと痛恨を籠めつつ述べている。サバイバルからの選択ではあっても、その先にある空虚さを見抜いていた。つまり、大学とは上滑りの欧化を推進する要員養成の機関であった。しかも、それは後述のように「大学令」として法令によって定められてもいた。

 私学には、そうした在り方に批判する建学もあった。しかし、そうした事例は仏教系や漢学国学などで圧倒的に少なく、大半は欧化を当然とした。あるいは国家が進める欧化を拒んで、ミッションの立場から開化を進めようとした大学もあった。クリスチャン新島襄の建学した同志社は、その一例であろう。福澤諭吉の創設した慶応義塾は、福澤の考えた近代化を推進する要員を養成しようとした。在野から、とくに経済活動を通して立国を考えたのである。

 近代日本で個々の私学の考えた国際性とは何だったのかを問題視する必要がある。どこに意味があり、どこに限界があったのか。その諸相を明らかにすることは、再び鎖国にでも政策選択をしない限り、今後の日本の行き方にとって無視できない問題意識のはずである。


五 拓殖大学の近代における国際性

 事例研究として取り上げる拓殖大学における国際性は、欧化諸学の修学では他の官立や私学と共有している側面はありながら、まったく違う見地を学是として掲げ、また学統にしてきた。その特殊性の背景は、近代日本の国際化のある側面を担う役割が課せられたからであった。

 特殊性とは何か。近代日本は、日清・日露の二度に亘る戦争を通して、近隣世界に領土と影響地を確保した。新しい土地には、別のエスニックが棲息していたところから、どのような関わり方をするのかの問題が生まれた。政策としては開化以前の社会をどうするのか。ここで西欧を対象にした場合とは別の国際性を必要とした。その営為が一私学に関与した人々を通してどのように展開したのか。そこでの営為は、最初は官との関わりがあっても、やがて「非官による国際貢献の思潮」の萌芽になっていく。その思潮がこの学校における学是の内容を構成した

 そうした特殊性を最初に提起したのは、日露戦争に際して首相の印綬を帯びていた桂太郎であり、その初心を進化し深化したのは、三代学長の後藤新平であり二代学監に就任した新渡戸稲造などであった。

 大学の存在する日本とアジア世界、さらに太平洋世界は、パワー拮抗によって徐々に日本は悲劇的な展開を見せることになった。米国と中国、そしてロシアに挟まれた日本という地理的な条件は、現在も変わらない。発火点は満洲(現在の中国東北部)である。辛勝した一九〇五年の日露戦争後に、その予感は後藤や新渡戸が自覚していた。

 満洲だけでなくシナ大陸も含めて、以後四十年の近代日本は翻弄された。やがて太平洋上における日米戦争にまで至り、日本は、矢折れ、弾尽きた。降伏調印は九月二日である。米国の斡旋でポーツマスにある海軍基地内を場所にして始まった百年前の日露講和交渉の調印の日付は、九月五日である。奇しくも米ソ(現ロシア)の対日歴史認識で同盟関係になった。近代日本の国際的な歩みを象徴的に否定したのだ

 本年八月三十日にサンディエゴの米海軍基地で開かれた対日戦勝利60周年式典でのブッシュ大統領の演説でも、六十年前の九月二日の米国務長官バーンズのステーツメント内容を追認している。対日戦への評価は微動だにしていない。米日同盟の背景にある対日認識は、北京政府やソウル政府の対日歴史認識批判と基本的に同質なのである。

 建学後の近代における半世紀弱の大学の歴史に関わった人々の時代と世界の認識、それに基づく試行錯誤の軌跡は、どういう内容であったのか。日本列島を越えた国際性における特化された内容には何があったのか。そこにある多くの「認識と構想と営為」を明らかにすることは、学是の存在理由が歴史の検証を経ることになる。こうした作業は、これからの日本だけでなく地球社会における日本の大学経営の在り方を考えるときに、貴重な糧を提供していると思う。


むすび 法から見た敗戦による高等教育の変質と継続したもの

 上述の「認識と構想と営為」の史実が、この半世紀余の間なぜ問題提起もされず、明らかにされてこなかったのか。そうした事態を生み出した環境、とくに法制上の環境を問題にしたい。近代日本で高等教育が法制として定義されたのは、一八八六(明治十九年)に勅令「帝国大学令」公布から、私学も許容した一九一八(大正七)年の「大学令」である。

 とくに第一条の条文の解析は必要である。「大学は国家に枢要なる学術の理論及び応用を教授し並びにその蘊奥を攻究するをもって目的とし兼ねて人格の陶冶及び国家思想の涵養に留意すべきものとす」(原文カタカナ)。

 ここでは、学術はもっぱら国家に寄与することが求められている。近代日本における開化の宿命であったのか。高等教育と国家の関係では、大学発祥の地である欧州のような「学の自由」に制約が課せられていたのは、時代の制約でもあった。限られた時間内に国家社会のキャッチ・アップを図らねばならなかったからである。しかし、占領中にGHQ・CIEは、そこに過剰に「国家」があると見た。それを軍国主義とし、精神的な武装解除の対象にした。

 「教育勅語」と「大学令」の双方の転換が必要と考えたのである。大日本帝国憲法の廃止に伴う教育勅語の廃止に代わって、現行憲法(一九四六年十一月公布)と教育基本法(一九四七年三月)が制定された。教育基本法の前文は新「憲法」に基づいている。

 第一条の教育の目的では、個人を最優先している。その前提に立って、大学の目的は、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第五章 大学、第五二条 目的)となった。

 近代日本の「大学令」と占領中に変えた現行の「教育基本法」に断絶があるのか。継続しているものと消失したものを明らかにする作業が残っている。そこを明らかにするところから、現在の退廃した諸現象の生じる有力な原因も浮かび上がってくる。敗戦革命説が主権回復後も盛んであったが、最近は退潮気味である。だからといって、旧態に復調すればいいというものでもない。

 「上滑り」に来たために、現在も近代日本の病理を引きずっている側面は確かにある。だが、すでに一世紀半を経て、骨がらみになってしまっている。上述の作業は、占領という異常事態を経ても連続している負の部分を摘出するところから、かなり厄介である。

 ここに改めて国是とは何か、なぜ必要なのかを考える必要があると思う。それは個々の私学の学是の再発見と再確認に通じ、さらに国是との関係で知的な緊張をもたらすからだ。

 歴史を探る営為は過去を眺めるだけではない。そこに現在と未来を発見できる。しかし、そうした発見ができるのは、探検者の姿勢というか在り方に掛かっている。ぼんやりしていれば、史実がせっかく送信している伝言を聞き取れずに、残骸しか目に入らないことになる。(了)


*近刊拙著 『近代日本の大学人に見る世界認識』 を参照されたい。自由社刊。

 この著は、学是を歴史的に明らかにするための論集である。建学1900年から1945年までの校長(序章の初代桂太郎)、学長(一章の三代学長・後藤新平、四章の四代学長・永田秀次郎、終章の五代学長・宇垣一成)と学監(二章の二代・新渡戸稲造)及び学長代理を意味した専務理事・大蔵公望(終章)、教授(三章の満川龜太郎、五章の専門部長・永雄策郎)等での学是の主要な構成要素であった国際性が、影響地であった台湾から満州にかけて、国策として展開された開発に関連して、どのように形作られていったかを追求した。

 同著の目次は、以下の通りである。副題は、折々に取り上げた人々が話したり書いたりした中から取った。

序章 台湾協会学校・初代校長 桂太郎の他者認識
  ――「我能く彼を知ると共に、彼亦我を知る」

一章 後藤新平のエスニック観
  ――「比良目の目を鯛の目にすることはできんよ」

二章 新渡戸稲造・国際開発とその教育の先駆者
  ――「東西文化の天職的発達と融和を望む」

三章 地域・地球事情の啓蒙家 満川龜太郎の時代認識
  ――「民族生活の科学的根基を鞏固ならしむる」

四章 自然体の伝道者・青嵐永田秀次郎
  ――「世界は人間の為に造られたるものでは無い」

五章 永雄策郎・近代日本の植民政策家
  ――「肉眼の育成を無視して心眼の育成はあり得ない」

終章 満州移住・大蔵公望の経綸と宇垣一成
  ――「この形勢は外国に関係ない間はどうでも良いが」


あとがき/例会での報告を終えて

 内容からと、注で紹介した近刊の草稿をFMICS・SDのメンバーに4月に見せた際の反応から、例会で報告してもあまりレスポンスがないのではと考えた。当初、どれくらいの方々が参加するのかと聞いたら、40名から50名、予定する日が近づいて聞いたら24,5名。当日には実際は10名足らずというところからも、主題への関心が極めて低調か、あるいは無いことが覗える。

 しかし、報告が終ってからの質問というか反応には、問題意識の深さを知ることができて、よかったと思っている。