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FMICS-SD 2005(平成17)年12月21日

『近代日本の大学人に見る世界認識』
序章 台湾協会学校・初代校長 桂太郎の他者認識

桂 太郎 「我能く彼を知ると共に、彼亦我を知る」の意味するもの

池田 憲彦

■問題の所在

@ 渡航可能な場所としての外国と外地、他者としての外人と異人の登場

 生きる行為において、一人はあり得ない。常に他者(彼)は実在していることを知らされている。そこから人の生き方の解釈で様々な見地が生まれてくる。

 開国の近代日本と鎖国の前近代日本を比較しての決定的な違いは、海外世界が直接する場として登場してきたところにある。海は海としてそこに所与のものとして存在しているだけでなく、渡航する場と手段になった。

 徳川幕権がどういう政策的な理由によって鎖国を国是にしたのか、諸説があるものの、ともあれ、ヨーロッパが急速に世界化する過程において、日本は自閉した。その結果、西欧衝撃が日本の周囲に及んで、明治維新という変革によって鎖国政策を放棄して、開国を国是とした(五か条のご誓文)。

 ここから、日本人の誰でも外国なり外地なりへの接触が可能となった。他者に外人や異人が登場したのである。

A 異なる世界への取り組み方に二重基準が生まれた/脱亜論

 維新当初は異人への接し方にさほどの違いはなかったものと思われる。しかし、西欧化という文明開化の路線が浸透していくに従い、舶来の異人への認識に違いが生じてくる。それが顕著になったのは、政策的な意図もあったものの、日清戦争からと思われる。それほど清帝国は日本人にとって脅威だった。庶民は勝てるとは思わなかったのである。

 これ以降、非欧米世界で実質上唯一独立していた近代日本人の対外認識に関わってくるのだが、白人に対しては尊敬し、東洋人には見下す態度が出てきた。

B 桂というエリートに見る対外認識

 日本は戦後に台湾を拾った。初めて外地が領有された。この新しい段階で、領有した外地である台湾にどのように接するか。数年後に勃発した日露戦争に首相として重責を担った桂太郎が、台湾協会の初代会頭として発言したのが、今回の主題である(35頁)。

 この在り方は、自分からの他者への一方通行による認識ではなく、自分の他者認識に応じてしか相手も自分を知ってはくれないという、当然といえば当然のことを述べているに過ぎない。そこでの姿勢は謙虚にならざるを得なくなる。

 この初心は、その後はどのように展開していったのかを拙著は明らかにする。

■暫定的なまとめ

 他者を知るという認識も含めた行為の理想形なり在り方を、桂は端的に述べた。当時のエリートたちが有したそうした初々しさが、台湾協会及び同学校創設において、どのように表出し展開したかを明らかにしたのが序章である。