■問題の所在
@ 東洋協会の改組における「東洋」という場所と日本及び日本人の位置
日露戦争の講和で得られた関東州(遼東半島)租借権と後の満鉄の基礎になった東清鉄道のうち長春から旅順口までの鉄道を確保して、活動領域が大陸に及ぶ新たな条件下、1907年に台湾協会からの名称変更が動議された。
殖民協会という案は後藤によって排除された。それは日本人の海外進出だけを意味するからである。日本が日本だけで存在し得ないことを知っていた後藤は、当時の世界の覇者である西洋に伍していくには、「東洋」に基づかねば日本のサバイバルは成立しないことを知っていた。日本の弱さを知ってのリアル・ポリティックスの「他者認識」の側面だけか。
A 複眼思考による多様性の容認/鯛とひらめの目
物事を一元化することは不可能であることを知ることは、理屈ではわかる。だが、生理化することは難しい。しかし、後藤の台湾における統治や満鉄総裁としての所管下での行政においては、彼は極力その方針を生かそうと試みている。多元的な価値の共存容認か。
目の位置を変えることはできないとは、現在でいうところの生態学的な思考であろう。だからといって、英国の植民地政策のように、原則として放置しておけばいいとする理由ではない。前項にある彼の志向における東洋優位から施策にしていたからだ。
B 東洋再興の戦略に基づく活動
政策の根拠は、生物学的統治原則である。前項でいう生態学的な思考である。その政策は、文装的武備である。現状批判としての反語は武装的文弱である。文装的武備とは現代の表現でいうならソフトの重視であろう。武装的文弱とはハード重視のソフト軽視を示唆している。日露戦争という辛勝を日本の優位という擬似現実にすり替えた趨勢に対して、擬似ではない現実を見極めていたのが後藤である。
■ 暫定的なまとめ
後藤という近代日本の啓蒙時代を意味する明治から大正にかけて戦略性のある動きをした政治家は、最終的には宮中の信認を得られず宰相にはなり得なかった。彼の挫折した有力な原因は、その戦略性の最も発揮された、十月革命以後の外交関係が途絶えたソ連との交渉再開への努力であった。もちろん、結果的とはいえ、ロシアの革命後の混乱に乗じて、シベリアでの優先的な地歩を築くための出兵を決めた際の外相であった。出兵の失敗から日本の北辺の安全保障を確保するための取り組みであった。
当時の日本の選良には、後藤の経綸なり構想力なりを受け入れるだけの許容力も理解力も無かった。以後の日本が急速に対外関係で失速していくのは、ソ連が、同盟対象として孫文を選択して、後藤の日本を選ばなかったところに始まるのは、経緯を見ればわかる。