■問題の所在
@ 新渡戸の悲劇/19世紀末・開明知識人の前にある壁としての東西文化の落差
新渡戸は札幌農学校の出身である。最初にドイツ、次に米国に学んだ。米国で学んでいた際に、後藤から連絡があり、台湾総督府技師に就任する。後藤の慫慂に対して、数回断っている。ありていに言えば、勉強のし過ぎで神経衰弱になっていた。明治期の海外留学組に多い病いであった。異国で学ぶから、想像以上の精神的負担が懸かる。
文化の格差というか距離を、なんとか自分の中で繋ぐか、あるいは両足を双方において均衡をとることが求められた。そこから名著『武士道』も生まれた。しかし、気概はあっても、時に足の下に何も無い状態を実感した人々は多かったのではないか。
最晩年に、満州事変以後の驕る軍部のシナ事変への展開に、オフレコで批判をしたのが記事にされ、在郷軍人会で陳謝した。発言の場所をとって、松山事件といわれる。真意が伝わらず一言半句が流布され問題化する過程は、現在でも変わっていない。
A カラードへの人種差別という現実への対峙
カリフォルニア州での日本農民への差別だけでなく日本児童の就学妨害のアンフェアな動きを知り、以後、米国に行かなかった。自分の学んだ米国ではないと憤慨したのであろう。しかし、松山事件の後に、大陸での日本の立場を説明する民間特使として訪米する。昭和天皇が新渡戸に不測のことが起こってはと気にかけた(叡慮)措置であったのか。
B 満州問題と有為な近代日本人の融和を目指した地球社会への大志
日露戦争に辛勝した後、台湾協会が1907年に東洋協会に名称変更をして、その記念に発表した評論『満州は東西文化の出会点』には、壮年期の新渡戸の世界認識が直截に提示されている。副題の節は、この評論の一節から取っている。「東西の天職的」とは、東西文明の共生を意図している。彼にとって、ここでは双方が本質で対等関係にある。それは東洋の表現について述べているところに表出している。隆々たる日本がその先駆けを果たしうるとの自信があった。当時の後藤と新渡戸の「満州から世界へ」の姿勢は共通していた。
日本の国際関係が袋小路に入る昭和になると、その自信も苦渋に満ちてくるのは、折々の発言に覗える。前掲の松山事件は、新渡戸と当時の日本人の平均的な世界認識の落差を示して、象徴的である。明治と昭和のこの違いが何処から来るのか。
■ 暫定的なまとめ/新渡戸の生き方から、現在の我々は何を学ぶか
日露講和の斡旋をしたルーズベルトは、『武士道』を購入しウエストポイント士官学校生徒に読ませたという。太平洋でのライバルになる日本人の探求であった。この見識に比して、明治以後の日本の指導層には、相手を知るのにどれほどの努力をしたのか。前段での明治と昭和の違いの批判的な考察は、幾度もする必要がある。それは1980年代に、円高を背景に日本経済人が米国に企業や土地買収で乱入して顰蹙されたことを想起するからだ。