■ 問題の所在
@ 満川の地域研究に見る広角性/ユダヤ人と米国におけるアフリカン問題
研究者としての満川の地域研究はいわゆるヨーロッパ以外をすべて考察対象にしている。その中で特記したいのは、ユダヤ問題についての態度である。フランス革命以後の欧米史を考察するに際して、ユダヤ人の動静を抜きにしては、その全体像は明らかにならない。だが、いわゆるユダヤ人陰謀説に対して、満川は強硬な反対の論陣を張った。百害あって一利なしの立場を取った。 また、米国内での差別の対象になっていたアフリカ系(黒人)への注目を怠らなかった。同時代では、この二つの主題だけで、その感覚の鋭敏性と先駆性を評価できる。
A ソ連との連繋と中国の背後にある内陸アジアへの注目
政策家としての満川の功績は、新平の要請に応じて、革命後のソ連と日本の連携についての建策を記したところにある。ソ連と日本の関係が、日本のサバイバルにとっていかなる意味をもっているかは、その建白書(昭和二/1927年一月)に凝縮されている。
もしこの建策が着手されていたら、日本は満州事変を起こす必要はなかったであろう。それは、日本が中国大陸にも過剰介入する必要性がなくなっていたことを示している。すると太平洋戦争も起こり得なかったと推察することは、可能である。 建策の中の一節が、「民族生活の科学的根基を鞏固ならしむる」である。その意味は、連繋の内容が日ソ間の野合ではなく、国境を越えて普及する可能性を有していた(孫文の「大亜細亜問題」演説と比較せよ)。当時の日本選良は、すでに受け入れる器量がなかった。
また彼は、中国の背後に広がる内陸アジアの動静への注視を怠らなかった。それはイスラーム系諸集団の自立動向への注目であった。一方で、シオニズムによるイスラエル建国意図を否定していないところに、彼の視線にある複眼性を見ることができる。
B 活動家として/私学校としての興亜学塾
同時代的な回顧録である名著『三国干渉以後』は、満川を取り巻いたり、彼が関わったりした内外の人物群が数多く出てくる。それらの人々を繋ぐものは、西欧衝撃により作られた既存の世界秩序への反対者であった。
活動家としての集大成が昭和五(1930)年九月に発足させた前掲の私塾である。講師陣にはアジア人からムスリムまで多彩である。義に基づきながら視野狭窄にならない国際人を育成しようとした意図を覗うことができる。
■ 暫定的なまとめ/満川の学び方から、現在の我々は何を学ぶか
地球社会とは多元的な世界の集合体であるとの複眼的な認識は、要素還元思考を排することになる。大量に流される誤情報と偽情報の入り乱れる現在にあって、満川の柔軟な認識世界は、義を深めたところに確保されていたことを確認したい。