永雄の略歴
旧制五高で大川周明と同期である。学者としては大内兵衛も同期。満鉄東亜経済調査局に入局して、後に周明を招いているが、永雄を知る者は少ない。
永雄の戦前における活動は、前半は満鉄在勤中にドイツに留学した成果として博士論文にもなった「植民地鉄道の世界経済的及世界政策的研究」、後半は拓大教授になってからの満洲移住協会常務理事としての満州移民活動である。満洲としては同じでも、一見すると鉄道と移民は違うように見える。だが、鉄道を守る移住政策でもあった。植民地鉄道は国家存在の前衛機関の象徴であることを、博士論文を執筆して理論化した。
敗戦とともに公職追放になり、蟄居を余儀なくされた。その間に、前掲主題の内容を指摘したフィヒテの檄文「ドイツ国民に告ぐ」の訳業に取り組んだ。敗戦と占領による様変わりした祖国の精神的なサバイバルをフィヒテの主張に事寄せて提示した。
■ 問題の所在
@ 永雄の植民地論の画期的な点は、植民地の永久保有はありえず、対植民地の最高政策はいずれ植民地の喪失に至るものという確信である(三、(3) を参照)。新平から稲造に至る系譜。だが、矢内原とは異質。その異質さは、自らの出発点を何処に置くかの違い。
A 満洲への移住政策は島国日本から大陸日本を作るという新たな国作りであった。その要員養成と文治の前衛機関に拓大はなるとの方針により改組された専門部の部長に就任した(四、(1) を参照)。しかし、肝心の文部省は、その真意である拓殖学の構築に最後まで不明であったようである(四、(2) を参照)。その落差の生じている要因は何か。傍証。木田宏は、戦前戦時の拓大出身者を評価していた理由。
B フィヒテを選んだ理由は、事物一般の認識において、心眼ではなくまづ肉眼が大切だというフィヒテの認識論に、敗戦後に覚醒したからと思われる。おそらく、昭和日本の敗北の有力な理由として、指導層が観念論に支配され易い現象を見て、具体性への認識力の足りなさを見たのではないか。心眼は肉眼あって初めて育成され得るという修辞は、それを暗示していると思う。すると、矢内原などはさしずめ心眼だけの持主になる。永雄と矢内原の植民政策観の違い(三、(3) を参照)。
■ 暫定的なまとめ/植民政策を昭和日本サバイバルの最優先課題にして実行
近代日本の外政で政策性が一貫し体系化し、曲りなりに国策にまでなったのは、永雄も有力な一人であった対満の植民政策以外に見つけることは難しい。だが、敗戦で瓦解したままで、事後の検証がされていない。侵略主義、植民地主義というレッテル張りで終っている。「失敗の研究」として、政策学と政策化の両面からの検証が必要。それも肉眼による。なぜなら、近未来に起こりうる中国に進出している日本企業の撤収という事態に、どのように対処するかの危機管理を考える先行の事例研究として、下敷きに十分になるからだ。