総括という命名をしていながら、判じ物のような題名である。しかし、近代日本の総括とは第二次大戦での日本国家をどう評価するかでもある。そこで、一般の日本人には自明のように思われている8月15日を終戦としている常識に、9月2日を提示した。それは国家日本が連合国に降伏調印をした日付である。9月2日を出せば、次は主権回復の昭和27(1952)年4月28日になる。この二つの日付はセットにならざるを得ない。しかし、8月15日からは、4月28日はすぐに思い浮かべないのが普通である。ここには、世界認識あるいは国際性における日本人の弱点が出ている。
■ 問題の所在
@ 本書五章の資料に全文を収録した『日本人の肉眼』は、フィヒテの認識論を通して、肉眼認識の前に心眼を優先するいわゆる知識人の弱点を明示している。8月15日が日付として印象に残り、9月2日が不鮮明なのは、彼我の関係よりも我の決めたことを優先しているからでないのか。だが、国際場裡での事実では、調印した日付の方が圧倒的に重い。15日は日本軍が戦闘行為を止めただけである。15日を何故迎える事態になったのかではなくて、9月2日の事態をなぜ迎えたのか、が本来の問題ではないのか。
A 負けた事実の受け入れ(認識)には、三つの型が考えられる。その1は、負けた以上は、わが方に問題があった。日本は間違っており、悪かったとする考え。その2は、負けていない、義は我にあり、戦争目的は実現したとの考え。その3、負けたのは事実、だからと言って不義で負けたのではない、という考え。肉眼の認識によれば、3になる。
この半世紀、どうやら圧倒的に多くなったのが、1である。A級戦犯という呼称や靖国神社問題もここから派生してくることになる。
B 占領という事実の意味するものの不明が、この半世紀余の日本のあらゆる混迷の有力な原因ではないか。現在、国会で争点になっている教育基本法の問題性とても、その文脈から見れば明らかになる。本来は、改正ではなく破棄のはずである。占領中にできた諸法は、憲法も含めてすべて一日でも一旦は破棄すべきなのである。それが主権というものなのだ。だから、subject to の意味するものがあいまいのままにされてしまってきた。
■ 暫定的なまとめ/21世紀の地球社会で日本の自画像を描くための前提
近代史認識が、戦勝国側の歴史認識に基づいたシナリオの権威化を余儀なくされていると、自前の立脚点はできない。なぜ、負ける戦をせざるを得なくなったかの検証を、自前の接近でしつこくする必要がある。それには、近代日本人のうちで選良と思われていた人々の世界認識をていねいに明らかにする作業が求められていないか。その検証作業を繰り返すうちに、弱点が鮮明になってくると思う。弱点が明らかになることは、一方でいい点も明らかになることである。事実に即して見るとは肉眼で認識することを意味する。そこで、かっこつきの心眼に色をもたらすイデオロギーは排されることになる。